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恋に効く、仏教 Vol.16

恋に効く、仏教 Vol.16 第十六話
余命のない人生

2016.05.26

こんな質問がありました。
 
知り合いが余命わずかと宣告されたのですが、
どう付き合っていけばいいでしょうか?
 
非常に悲しいことで、
一瞬一瞬を共に大切にお過ごしください
としか思い浮かぶ言葉もないくらい
悲しいことです。
 
大体このような場合、大往生という年齢に達していないケースも多く、
寄り添うくらいしかできないのかもしれません。
 
 
少しテーマを広げて見てみると
少し違った見方ができるかもしれません。
 
余命ってなんでしょう?
 
それは後どのくらい生きられるかの時間の事と
言われると思いますが、
そんなもの決まっていないはずです。
 
 
私たちはいつの間にか人生を長い定規のように考えています。
 
赤ちゃんの時が左端で、
死ぬ時が右端
今は真ん中くらいかな?
もうお迎えが近いかな?
 
だけど、
本当は生きる死ぬという事は
 
そんな話ではないと思うのです。
 
生きるという裏に常に死ぬという事がセットで付いているのです。
 
裏返せば常に死というものがあるはずです。
 
定規ではなく
手のひらのような感じでしょうか?
 
表と裏、どっちも一体なのです。
 
いつ死ぬかわからない不安定な中を生きているのです。
 
全員です。
 
生まれた瞬間からの全員がその不安定な中を日々暮らしているのです。
 
 
日本では、平和な時代になり、戦地で亡くなる人はいませんし、
空襲も来ません。
 
食べ物は豊かになり捨てるほどあるので、
飢えて死ぬ人もまずいません。
 
医学も発達し、よほどのことがなければ治ってしまいます。
 
ある意味、不安定さを感じない、感じさせない社会が
ありがたくも出来上がっています。
 
その中ですと、
死なない前提で日々を生きていくのです。
 
でも、
それはわからないのです。
 
どんなに健康に気をつかっている人も、
交通事故で亡くなるかもしれない。
 
自然災害が突然来て亡くなるかもしれない。
 
善良に暮らしていても犯罪に巻き込まれるかもしれない。
 
何が起きるかわからない中で暮らしているのです。
 
 
ありがたくもその不幸が起きる確率が昔より極端に減っています。
 
ただ、わからないのです。
 
 
死なないつもりで生きていく。
 
こんな生き方ができるのは、贅沢な思いです。
ある意味日本が本当に恵まれている事がわかります。
 
ただこの思いは、傲慢な思いを育てがちです。
 
生きているありがたさを忘れていくのです。
日々の大切さや、家族のある幸せを、
隣にいる人たちの存在を軽く見てしまうのです。
ずっとあると思うから。。。。
 
でも、そうじゃありません。
 
今この瞬間は今にしかなく、
明日の事はわからない中で、
一日一日生かされています。

 
横にした定規の中央にいて
まだ死なない、あの人も私も、
と思っていては決して気づかないのです。
 
常に死がある。
 
決して不吉な事ではありません。
死なない人なんていないのですから。
 
この死を身近に感じることこそ、本当の意味で生きるという事を
しっかりと思う事だと思うのです。

 
 
病気などで余命宣告される場合もあります。
 
非常に悲しいことですが、
 
厳しい事を言えば
余命を宣告されて初めて生きる大切さを知り、
素晴らしい生き方に変わるのでは遅いのかもしれません。
 
周りの人も、
大切な人が残りわずかの命と知ってから
優しくし大切に時間を過ごすのでは遅いのかもしれません。
 
 
ご自分の命の危機に接して、
または、
大切な人の命の危機に接して
はじめて
気づく事も多いとは思いますし、
 
遅いから無駄だという事ではなく、
気づく事は素晴らしいことで、
素晴らしい時を過ごされるべきですが、
 
 
本来は、
元気で健康でいるうちから、
素晴らしい生き方をしなければいけないし、
 
周りの人も、その人と素晴らしいお付き合いを
していかなければいけないはずです。
 
余命が宣告されてからでは、
もったいない気がします。
 
余命なんてわからないのです。
余命なんてないのです。

 
元気なうちから
気づく事が大切なのです。
 
誰もがいつかわからないのですから。
 
 
もちろん病気になってその思いに初めて気づいたのなら、
気づきは遅かったかもしれませんが、
それでも、気づいた時は生きているのです。
一日一日をその素晴らしい目覚めと共に過ごせばいいのです。
 
 
話を戻して
 
余命宣告された人とどう付き合っていけばいいか。
 
いつも通りでいいのです。
 
ただ、そのいつも通りが、
生かされているという素晴らしい想いになっていない、
今までのいつもではなく、
 
普段から素晴らしい生き方をしている場合の
 
いつも通りでなくてはいけません。
 
自分も相手も、今日一日生き抜いていく不安定な中で
生かされているという想いに目覚め、
大切にじっくりと
いつも通りに過ごしていくのです。
 
その人の悲しみを我が悲しみとし
その人の喜びを我が喜びとし
共に生きていくのです。
 
 
悲しいし辛いでしょうが、
素晴らしい日常を生きるのです。
 
明日もある、明後日もある、来年もあると
慢心し過ごす日常ではなく、
一日を大切に過ごす日常を。
 
 
さらに
その人と過ごす想いを、
その他の人にも抱かなければいけません。
 
余命宣告された人にだけ
素晴らしい心を見せてもしょうがありません。
 
素晴らしい生き方に目覚める事が大事です。
 
生きる時間の大切さ、
相手と過ごす事の大切さ、
無駄に怒ってはだめだな。
意地を張ってはもったいないな。
素直にならなきゃな。

 
 
死を宣告された方の周りにいる者としては、
気づき、生き方を見直すこと。
 
 
その素晴らしい想いが、
その人と悲しみを共にし、辛さを共にする。

そんな付き合いになるのだと思います。
 
 
余命宣告された側の場合で言えば、
遅いと書きはしましたが、
 
スタートは遅かったかもしれませんが、
遅すぎるなんてことはありません。
 
素晴らしい想いに気づき、
周りの人の大切さに気づき、
自然のやさしさに気づき、
生かされていたことに気づく
事は、決して遅くはありません。
 
素晴らしいその日を過ごす事ができるのですから。
 
元気なうちから気づいていれば、さらに良かったでしょうが、
この豊かな時代、気づきにくいのです。
 
この素晴らしい想いに気づかずに
傲慢なままで、
大切な人の存在
やさしさ、真心に気づかずに
亡くなっていく方も多くいます。
 
せっかく気づいた
その素晴らしい想いを周りの人に伝えてください。
 
もし本当に余命通りだったとしても、
その素晴らしい想いが
周りの人の心に芽生え、
その想いは、時を超えて繋がっていきます。
 
 
今回は、すこし大変なテーマです。
余命宣告されるケースも人それぞれで、
そんな余裕のない人もいるかもしれません。
 
でも、みんな亡くなるのです。
 
余命宣告された方も
私も、みなさんも。
 
 
残り何日生きられるかではなく
今日一日生かされたとの思いが必要です。

 
朝が訪れ再び始まる今日一日は、
誰にでも新しい一日で
どのような想いで過ごすかも
一人一人の自由です。
 
 
素晴らしい想いを心に抱く
 
日常を過ごしていきましょう。
 
 
 
余談ですが、
最近、「終活」という言葉が聞かれるようになりました。
財産の整理や、お葬式の準備などの話だけだと
思っているかもしれませんが、
 
このような事をすることにより、
死が具体化してきて、
それにより逆に安心して生きられるようになっていくものです。
 
うちに来るお婆さん達は、話し終わると
あー良かった。
これで後は安心して死ぬだけだ。
とよく言います。
 
死を感じる事で
生きる事が輝きだし
安心して暮らす。
 
自然に死を実感できない現代社会。
それが終活の最大のメリットかもしれません。
 
 

Writer Profile

木宮 行志
木宮 行志Koushi Kimiya

お寺婚活「吉縁会」事務局長 / 龍雲寺住職

浜松市の龍雲寺に入寺後、小学生100名のサマースクールや、世界の子どもにワクチンを送る万灯会など、社会貢献活動を行う。

2010年より、静岡県西部で費用をかけず、安心した出会いの場を提供しようとお寺での婚活「吉縁会」を地元の若手僧侶とはじめる。2015年からは東京、2016年からは名古屋・岐阜・大分・仙台でも開催。現在、会員は10,500名。成婚は260名以上と大きな成果を上げる。僧侶という立場で、独身世代と向き合い、多くの縁結びをお手伝いする。2018年春、 龍雲寺 第22世住職となる。

永代供養・樹木葬・坐禅会紹介『龍雲寺』
寺コン・お寺婚活『吉縁会』

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