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恋に効く、仏教 Vol.8

恋に効く、仏教 Vol.8 第八話
見返りを捨てて見える事

2016.01.27

人知れずの行いに何の意味があるのか?
それが何をもたらすのか?

成功している人は、陰でその様な事をしているけれど、成功と関係あるのか?
 
この様な問いかけを受ける時が、ちょくちょくあります。
 
何か善い行いをすると
それにより何かが起きると期待するわけですね。
 
そんな、
なんも起こりませんよ。
 
 
 
「布施」という言葉があります。
今の時代「布施」と聞くと、「お坊さんに渡すお金でしょ。」と思われてしまうかもしれませんが、そうではなく、
「施す」という事です。
 
仏教において「布施」という「施しの行い」は何よりも大事だとされています。
 
 
私の寺のある地域では、四十九日の法要の際に、四十九餅というお餅をお供えする風習があります。
 
余談ですが、仏事のやり方をネットで調べる方が多くなって困っています(笑)
仏事のやり方は、宗派などでの違いはもちろんありますが、実は宗派なんかより地域での風習が今もその基になっていたりします。
 
ネットも車も電話もない時代、文化というのは徒歩圏内の文化圏ですから、隣町に行けば文化は違うのです。
地域の風習はGoogleでもわからないのです。
 
話は脱線しましたが、この四十九日にお餅をお供えする風習の意味を私の地域に伝わっている話としてお話しますと、
 
人は生前につきたくもないウソの一つもついたことがあるから、亡くなった後、一度は地獄へ落ちるとされます。
地獄ではひどいことをたくさんされるのですが、
体の49の関節に釘を打たれるというのがあるそうです。
はりつけですね・・・・・・
 
これは痛そうです。
 
昔の人は、これは可哀想だと思い、お餅をつき、49個にしてお供えしました。
 
お餅を供えると言っても昔は非常に大変な事です。
今の時代、お餅なんて簡単に手に入ります。
みんな「うちは貧乏、貧乏」というのが好きですが、私がお坊さんになって数百と四十九日法要をしましたが、今まで一度も
「うちは貧乏だから、お餅なんて高価なものは用意できない」
という家はありませんでした。
「わかりました。用意します」
の一言です。
本当に裕福になりました。
 
昔の人は、お餅を用意するのは非常に大変でした。非常に貴重なものだから正月に食べ、喜んだのです。今はおせち料理ですら、ご馳走と思えない方が増えている時代ですが・・・・・・
 
とにかく昔の人は一生懸命もち米を用意し、それをついて、49個にして
さらに、お供え後、自分たちで食べるのではなく、いろんな人にそのお餅を配って歩いたそうです。施してしまうのです。差し上げちゃうのです。
 
このような人に施すということは素晴らしいことで、その様子を見ていた鬼は、体の代わりにお餅に釘を打ってくれた。
 
というお話が伝わっています。
 
今でもその風習は続いていますが、形だけになっている感があります。
お餅も簡単に用意でき、施そうにも、知らない人からもらったお餅は怪しくて食べない時代。本来の形は崩れていますが、これを機に施しについて考え、思い直す機会としてお供えを行ってもらっています。
 
 
施す事には、大きなルールがあります。
 
それは、
「見返りは求めない」
というルールです。
 
ただあげる。
 
それだけで良いはずです。
 
ただこれが、なかなか難しい。
 
 
見返りというと、お金や物を想像しますが、
それだけでなく、
「あげたら、喜んでほしい」
「あげたら、有意義に使ってほしい」
「お礼を言ってほしい」
この様な思いも見返りの心です。
 
私たちは、人にあげても、
喜んでいるか?
お礼は言ったか?
有効に使っているか?
 
あげた後まで追っかけています。
この様な心ですと、ついには
 
「喜ばないなら、あげない」
「有意義に使わないなら、あげない」
「お礼も言わないなら、あげない」
 
となってしまいます。
 
ただあげる。ただプレゼントすれば良いのに、相手の思いまで追っかけて、あげる、あげないにまで、事が及ぶのです。
 
昔の人は、お餅を用意するのは大変だったけど、
一切の見返りも求めず、
さぁどうぞ、さぁどうぞ
と差し上げていった。
 
この見返りを求めない布施の素晴らしい心に鬼が感銘し、お餅に釘を打ったのです。
 
お餅をあげて多くの人は喜んだでしょうが、中にはお礼も言わない人もいたり、お餅のつき方に文句を言う人もいた。
でも、それは相手の問題です。
差し上げた後の事は、もう向こうの問題なのです。
 
私たちは、その様な見返りを求めない心で、相手と接しているでしょうか?
 
行えているならもっと多く行ってください。
 
行えていないなら
少し施しの心について考えてみましょう。
 
そして
見返りを求めない施しの行いを行いましょう。
 
布施や、施しというと、お金や物を思いがちですが、
お金のかからない布施もあります。
 
例えば、挨拶をするとか、席を譲るとか、重たいものを持ってあげるとかも布施です。
 
また、和顔施と言って、ニコニコしているっていうのも布施です。しかめっ面の方とは、すれ違ってもいい思いはしませんが、穏やかなお顔の人とはすれ違ってもいい気持ちがするものです。
 
ただ、この様な施しも、
見返りを求めないことが大事です。
 
すれ違ったら誰にでも、ただ挨拶をすればいいのに、
 
挨拶し返す人にしか、挨拶しない
 
となってしまっているのではないでしょうか?
 
 
最初に戻って
 
人知れずの行いに何の意味があるのか?
それが何をもたらすのか?
成功している人は、陰でその様な事をしているけど、成功と関係あるのか?
 
 
人知れずの善い行いに意味があるかと言われれば、別にありませんし、何ももたらししません。
 
善いことをしている
 
これがすべてです。
 
唯一言えるのは、成功している人が、布施の行いをするのは、見返りの為でなく、
布施の行いに心目覚める訓練のようなものかもしれません。
 
心は急には変われませんし、お金や見返りなどの誘惑に弱いものです。
 
ただ善い行いをする。
ただ挨拶をする。
ただあげる。
 
見返りを求めず、ただ差し上げるという行いを続けることで、
素晴らしい心に段々と目覚めることができるのです。
 
現代は、
ギブ&テイクの時代になってきています。
 
この考え方の中では、見返りがないと動きませんし、
見返りのないのに行っている行為を疑います。
 
メリットのない行動は怪しい。信用できない。なんの意味があるの?
 
自分の心が、見返りを求める心、ギブ&テイクの心になっていると
世の中も、それでしか成り立っていない様に見えてしまうのです。
 
 
本当の成功者は
ギブ&テイクの世界から離れて活動しているのではないでしょうか?
 
 
これらは、普段の生活、結婚生活、恋愛関係、すべてに言えることです。
 
 
是非、布施の心に目覚めていただき、
 
まずは
ニコニコと優しい顔で過ごす
 
ここから始めてみませんか?
 
それが何かを起こすかはわかりませんが、
善い行いであることは確かです。

Writer Profile

木宮 行志
木宮 行志Koushi Kimiya

お寺婚活「吉縁会」事務局長 / 龍雲寺住職

浜松市の龍雲寺に入寺後、小学生100名のサマースクールや、世界の子どもにワクチンを送る万灯会など、社会貢献活動を行う。

2010年より、静岡県西部で費用をかけず、安心した出会いの場を提供しようとお寺での婚活「吉縁会」を地元の若手僧侶とはじめる。2015年からは東京、2016年からは名古屋・岐阜・大分・仙台でも開催。現在、会員は10,500名。成婚は260名以上と大きな成果を上げる。僧侶という立場で、独身世代と向き合い、多くの縁結びをお手伝いする。2018年春、 龍雲寺 第22世住職となる。

永代供養・樹木葬・坐禅会紹介『龍雲寺』
寺コン・お寺婚活『吉縁会』

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