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恋に効く、仏教 Vol.23

恋に効く、仏教 Vol.23 第二十三話
「いただきます」から始めてみる。

2016.11.25

昔読んだ新聞の投書にこんなものが載っていました。
 
学校で「いただきます」を言う事に反対する親が出ていて、実際に言う事が中止された。
 
と言うものです。
 
馬鹿馬鹿しい事ですが、
訴えとしては、給食費を払っているのに、いただくなんて惨めな言葉を言わせたくない、という親からのクレームだったそうです。
お金払っているのだから、言う必要はないと。
 
ほんとに馬鹿な話です。
 
でも、もっと馬鹿だなーと思うのは、学校がその意見に負けて、いただきますを止めてしまったという点です。
 
今は拍子木でスタート!と言う感じで食べているようで・・・・・・。
 
この様な馬鹿みたいな意見に戦えない環境になっている事に驚きと戸惑いを感じますが、
お金払っている側が圧倒的に強い
という社会風潮の表れのようで
 
お店で横柄な態度を取っていないか?
自分自身にも問いかけてみなければと
思ったのを覚えています。
 
さて、
この様な話を聞いて、自分は「いただきます」を言っているから大丈夫と思う方もあると思いますが、
 
果たして本当の意味を込め、思いを込め
いただきますを言えているでしょうか?
 
私たちお坊さんは食事を非常に大事にします。
 
修行道場では、食事も修行であり、無言で音もたてず、真剣に向き合い、食事をします。
 
その食事をする前に、お経を読むのですが、
以下のような誓いの言葉を唱えます。
 
食事五観文
 
一には功の多少を計り彼の来処を計る。
 
二には己が徳行の全闕(ぜんけつ)を
忖(はか)って供(く)に応ず。
 
三には心を防ぎ過貧等(とがとんとう)
を離るゞを宗とす。
 
四には正に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)
を療ぜんが為なり。
 
五には道業を成(じょう)せんが為めに
当(まさ)に此の食(じき)を受くべし。
 
 
少し難しいので訳してみようと思いますが、ネットなどに訳が掲載されていたので、非常にわかりやすいので転載いたします。
 
 
一には功の多少を計り彼の来処を計る。
 
この一椀の食物は、たとえ一粒のお米、一茎の菜といえども、それが耕作され、種蒔かれて・・・と限りない人々の手を経て、いま自分に与えられていることを思い、感謝していただきましょう。
 
 
二には己が徳行の全闕(ぜんけつ)を
忖(はか)って供(く)に応ず。
 
こうして無限のめぐみによる食物をいただくについては、常に反省を忘れず、その恵みに値するよう、自己の向上を目指しましょう。
 
 
三には心を防ぎ過貧等(とがとんとう)
を離るゞを宗とす。
 
美食に向かえば貪りの心をおこし、粗末な食膳には怒りと不満をいい、毎日同じ食事にあえば愚痴をこぼす私達の心のゆくえを熟視し、これらの三毒の迷いを改めましょう。
 
 
四には正に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)
を療ぜんが為なり。
 
薬は甘苦によって増減してはいけない。日々の食物は、この生命を支えるためにあり、美味・不味・好き嫌いの心を離れていただきましょう。
 
 
五には道業を成(じょう)せんが為めに
当(まさ)に此の食(じき)を受くべし。
 
食物をいただいてこの身心を支えると共に、一切の生命に感謝し、この日々を、自他の向上としあわせを目指し、毎日を大切に生きていきましょう。
 
 
どうでしょうか?
 
この様な深く重い思いを、毎食毎食しっかり心に持ち過ごさねばいけないと思うのです。
 
キリスト教の方々が食事の前にお祈りするのも非常に似ています。
 
ただ、日本人は頭がよく、
毎日唱えるのに唱えやすくするため
 
いただきます
 
という6文字にその思いを集約して唱えているのです。
 
 
それが、どうでしょうか?
 
私たちは、毎日このような深い思いを持って
この6文字を口から吐いているでしょうか?
 
号令のような、ただの音として出しているだけではないでしょうか?
 
 
僕は思うのです。
学校でいただきますを止めて
笛か拍子木で食べ始めているのも
 
思いもない「いただきます」を言って食べるのも
 
あまり変わらないのではないかと。
 
思いのない「いただきます」は、笛や拍子木と何が違うのでしょう?
 
 
「いただきます」という音の号令を鳴らしているのでは、笛と何が違うのでしょう?
 
 
その様な「いただきます」を言っているなら、
クレームをつけた親の意見に、対抗できるほどのものはないのではないでしょうか?
 
 
私たちは、
食事を食べねば死にます。
ある意味、この体を体として
心を心としてくれているのも
日々の食事であり、
その為に、殺している作物や動物の悲しみがあってこそです。

 
 
お寺で坐禅をしたり
自己啓発の本を読んだり
勉強したり
 
自己の向上の為、様々な事をされているとは思いますが、
 
改めて修行
改めて勉強
 
ではなく、
 
日々の中に修行や学びはあるのです。
 
食事は、日に3回やってきます。
 
一日3回、脚下を見つめなおす時間があるのです。
 
それをおろそかにして
 
どうして素晴らしい心になれるのでしょうか?
どうして素晴らしい人間になれるのでしょうか?
 
幸せになりたい。
そう思うなら、
 
いただきます
から始めてみてはいかがでしょう?
 
これを思いを込め、頭を垂れ
唱えることが日に3回あれば、
 
私たちの暮らしは全く違うものになります。
 
 
世の中でクレーマーと呼ばれる人たちが突拍子もない事を言う時代ですが、
おかしい人がそんな事言っていると
やり過ごすのではなく
 
本質的に、自分はそれが出来ているか、問いかけてみるべきです。
 
 
最後に
私たち臨済宗妙心寺派の中国地方のお寺さんたちが、
食事五観文を子供向けに簡単にして作ったものがありますので、
それも転載いたします。
 
この思いを心に持って
過ごす毎日はきっと幸せになるでしょう。
 
 
『食事の五つの誓い』
 
一つ、すべてのものに感謝してこの食事をいただきます。
 
二つ、自分の日々の行いを反省してこの食事をいただきます。
 
三つ、欲張ったり残したりしないでこの食事をいただきます。
 
四つ、身体と心の健康のためにこの食事をいただきます。
 
五つ、みんなが幸せになるためにこの食事(をいただきます。
 
合掌、いただきます。

Writer Profile

木宮 行志
木宮 行志Koushi Kimiya

お寺婚活「吉縁会」事務局長 / 龍雲寺副住職

浜松市の龍雲寺に入寺後、小学生100名のサマースクールや、世界の子どもにワクチンを送る万灯会など、社会貢献活動を行う。

2010年より、静岡県西部で費用をかけず、安心した出会いの場を提供しようとお寺での婚活「吉縁会」を地元の若手僧侶とはじめる。2015年からは東京、2016年からは名古屋・岐阜・大分・仙台でも開催。現在、会員は10,500名。成婚は260名以上と大きな成果を上げる。僧侶という立場で、独身世代と向き合い、多くの縁結びをお手伝いする。

永代供養・樹木葬・坐禅会紹介『龍雲寺』
寺コン・お寺婚活『吉縁会』

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